自分の現在は過去の選択の末にある
多くの人は被災者となった場合、「仕方がない」「運が悪かった」と感じると思います。しかし、ここで一度よく考えてみて下さい。
大人であれば、自分の住む場所を自由に決めることが出来ますから、その気になれば危険な場所は可能な限り避けることが出来たはずです。
旅先で被災した方はまあ不運だとは思いますが、極論を言えば、違う場所を旅行先に選択することは出来たでしょう。
まして居住する場所としてそうした場所を選んだ人は、そうした危険を許容したからこそ、そこに住んでいたと考えられます。
両親がいるから、という人は、両親を説得することは試しましたか?
説得が出来なくても、心情的には離れたくなくても、物理的に拘束されていたとかではないですよね?
つまりそこに居続けたのは、選択の結果です。
仕事で仕方なく、という人の多くも、違う仕事を選ぶ自由はあったんじゃないかと思います。
会社の都合なんかに耳を貸さず、辞めて引っ越す自由はあったんじゃないでしょうか?
つまりそこに居続けたのは、選択の結果です。
やや暴論的に言ってしまいますと、物理的ではない都合というのは、極論を言えば完全に自分の心次第でどうにか変えられるものなんですよ。
思い切るなり諦めるなりして柵(しがらみ)をかなぐり捨てれば、状況によっては逃げ出せばいいだけです、絶対にそうできない物理的な問題でもありましたか?
そこに居続けたのは、結局は選択の結果なんです、まあ現実的に云々など、望まない選択や理不尽な選択も多いでしょうけど。
「継続」も選択の一つです、特に意識して考えていなくてもです。
生まれてから30年住んできた町で、当然明日もこの町に住み続ける、というのは立派な選択の1つです、今すぐに街を離れるという選択肢もあるわけですから。
お気付きだと思いますが、人というのは、なんやかんや言いつつも、ある意味で大なり小なり「好きで今そうしている」んです。
悩んだり無意識だったり惰性だったり、行動力が必要な選択を避けたり(避けるのも選択です)と、細大あらゆる状況で選択を続けてきた結果、今のあなたが、そこにいてこれを読んでいるわけです。
あの日、あの時、勇気を出していれば、もう少し努力していれば、全てを捨てて後先考えずに逃げ出していれば、と思ったことがある人も多いでしょう、きっとその気になれば出来たはずですし、同じような場面でそうした人もいるはずです。
その時にそうしなかったのは、つまりはしないという選択をしたわけですし、何も出来なかった、とは何もしなかっただけです、逃げ出すとか、全てを投げ出す、ということさえも選択の1つなんですから。
つまり、その後に起きたことは、全てが選択の結果なんですよ。
まあ、人間万事塞翁が馬、と言いますが、